FC2ブログ

回船問屋のある街…1

(『富山港展望台』のつづき)
FI2617794_1E.jpg町内各所に設けられている、ご覧の観光地図のコースほぼそのままに、岩瀬浜駅、運河、展望台とたどり、「回船問屋群のあるまちなみ」、岩瀬大町通りに向かうことにしました。

ここには、現役当時のままの建物を、博物館として公開している「森家」があります。


FI2617794_2E.jpg庭木の緑と、板塀の黒のコントラストが美しい、大町通りの風景です。

後で、森家の学芸員の方に伺ったところでは、明治10年ごろに大火があり、現在の街並みは、それ以降に再建されたもの、とのことでしたが、江戸時代の面影は十二分にあり、保存状態もよく、豪壮な商家建築群を堪能することができました。
かつては、この家並みのすぐ後ろが、神通川に面していたそうです。
撮影地点のMapion地図

FI2617794_3E.jpg森家の近く、大町公園には、ブロンズで造られた北前船(うるさいことを言うようですが、正確には『北前型弁才船』)の模型が飾られており、嬉しくなりました。

説明書きによると、12分の1縮尺をうたっていたものの、帆装や舵などは総じて小さめな上、反面、船体がやたら肥えた形に造られていたので、デフォルメモデルとでも言うべきものでしょう。
しかし、ブロンズ像としてはディテールが非常に細かく、索具類も正確に描写されており、一部に洋式帆装を取り入れた、明治中期の弁才船の雰囲気は、よく表現されているように思えました。

FI2617794_4E.jpgううん、北前船の模型に気を取られて、森家の外観を撮るのを忘れてしまいました(泣)。外観は、「北前船回船問屋 森家」(富山市HP)でご覧くださいね。

写真は最初に通された、「オイ」という、囲炉裏の切られた部屋の吹き抜け。能登材を使っているそうで、百数十年の間、囲炉裏からの煙でいぶされた梁は、つややかに黒光りしており、素晴らしい構造美を見せてくれました。


FI2617794_5E.jpgこちらは、三つある「ヒカエノマ」の一番奥から、通り側を見たところ。
窓が開け放たれ、ふすまや障子がはずされた室内は、冷房がなくても充分に涼しく、夏に強いこの種の日本建築の長所を、思い知らされた気分でした。

欄間の透かし彫りや、鴨居の釘隠しの飾り、どれを取っても歴史を感じさせるものばかりで、自然と背筋が伸び、座るときは正座してしまうほどでした。


(19年8月8日撮影)

(『回船問屋のある街…2』につづく)

大田区立郷土博物館

FI2617670_1E.jpg先日、がーちゃんさんのブログ(がーちゃんフォトアルバム)にお邪魔したら、「大田区立郷土博物館 その3」で、素晴らしい和船の展示や、ペーパークラフトが紹介されていました。都内に、こんな熱いスポット(笑)があったとはつゆ知らず、3月11日、勇んで大田区立郷土博物館を訪ねました。

西馬込の駅から、閑静な住宅街をしばらく歩くと、ゆるい坂の途中、右手に博物館の白い建物が現れました。
(詳細は『大田区立郷土博物館のご案内大田区HPを参照)

FI2617670_2E.jpgまずは3階に上がり、昔の暮らしや手工業、また、かつて大田区の重要な産業であった、海苔養殖の歩みについての展示から拝見。

写真は、明治16年7月10日の日付が入った、たたみ一畳ではきかない大きさの奉納額。古びて見えますが、諏訪神社にあったものの複製だそうです。

海苔篊(のりひび)の列が、はるか沖合いに広がり、岸には収穫を降ろしているのでしょう、数艘のベカ舟がたたずみ、浜では女たちが、乾し台に海苔簀(のりす)を並べて海苔を干している…。

江戸前の海らしく、彼方には弁才船(大型商船)の行き交う姿も描かれるなど、かつての東京湾における、海辺の生活をあますところなく描写していて、惚れ惚れと見入ってしまいました。明治時代は、江戸時代から続く内航商船の全盛期でもあり、たくさんの大型和船が、全国を往来していました。この絵からも、その賑わいの一端がうかがえます。

海苔養殖に関する道具類のコレクションも圧巻で、国の重要有形民俗文化財にも、指定されているとのこと。海苔関連の展示は、最も力を入れているのでしょう、非常に詳しく、丁寧に見てゆくと、1日では足りないほど充実している、と言っていいほどの「読ませる展示」なのが印象的でした。

和船関連では、ベカ舟の実物や、海苔親船(ベカを数艘搭載、漁場に運搬するエンジン付き母船)の立派な模型があります。ベカというと、どうしても浦安(過去の記事『浦安市郷土博物館…1』を参照)を思い出してしまいますが、同じベカでも、地域や用途によって、さまざまな形式があり、大田区のものも浦安のそれとは、だいぶ異なります。

展示の記事を読んでいて、ハッとした記事が一つありました。長くなり恐縮ですが、備忘録を兼ねて…。

昭和3年3月の、東京日日新聞の「京浜沿岸の漁民 けさ府庁に押かく」という記事の一部とともに、以下のような解説がありました。
横浜港と東京臨海部を結ぶ、京浜運河の工事は、昭和2年(西暦1926年)に計画されたものの、東京側は海苔漁民の反対運動により、着工が大幅に遅れて昭和14年にずれ込み、そうこうしているうちに戦争が始まり中断され、神奈川県側と、現在の品川区勝島の部分のみ完成。戦後は運河外側の埋立てが進み、現在に至った、というエピソードです。

京浜運河は、以前ご紹介したように(過去の記事『京浜運河を散策する…1』以下のシリーズを参照)、東京側と神奈川側に、同名の運河があるものの、その性格、規模とも異なります。
神奈川側が、本船が入れる港湾運河なのに比べ、東京側は幅・水深ともに少なく、橋も架かり小型船しか運航できません。しかも京浜運河は、羽田~多摩川間で分断されています。

京浜運河の計画が、古く明治からあり、ことに関東大震災後、水運の重要性が再認識されてから、にわかに現実味を帯びて、昭和3年、京浜運河株式会社により、7ヵ年での建設計画が提出されたいきさつは、矢野剛の「運河論」(過去の記事『あの本が!』を参照)にも書かれています。
しかし、なぜ現在の京浜運河が、東京と神奈川に分断されているのかは、史料に恵まれず謎のままでした。今回、その謎が氷解して、胸のつかえが取れたような、すっきりした気分になったものです。
このことだけでも、来た甲斐がありました!

FI2617670_3E.jpgもう一つ、腕組みして、しばらく飽かずに見入ってしまったのが、この展示です。

写真では、ちょっとわかりにくいかも知れませんが、床一面に大田区周辺の地図が貼ってあり、六郷用水と、二ヶ領用水の流路…それも膨大な数の分水路までが、各ポイントの写真とともに、地図上に記されているのです。
地図はコーティングされているので、上を歩いてじっくり見ることができます。

大田区周辺の、特に臨海部は、真水に乏しい地域でしたから、稲作や飲料水の確保のため、このような用水の整備に、力が注がれたのでしょう。
現在は、一見名もない排水路のようでも、昔は貴重な水利設備だったというのは、珍しいことではありません。貴重な土木遺産として、大切にされるといいですね。

FI2617670_4E.jpg2階の屋外には、ビニールの上屋を掛けられて、エンジン付き和船が保管されていました。

窓際にあった説明板によると、この船は海苔船「伊藤丸」といい、昭和33年の建造。主に千葉県沿岸にあった、養殖海面までの往復に活躍した後、持ち主が変わり、釣り船として使われていました。改造箇所が少なく、海苔船としての原形を留めているため、平成10年に、当博物館に搬入されたそうです。

ひととおり展示を見て、1階で本やペーパークラフトを購入した後、「2階の船、見せていただけるでしょうか」と、お願いしたら、快く扉を開けてくださいました。何しろ、実際に使われていた船ですから、相当痛んではいるものの、船底に見えるフナクイムシの痕や、腐食した銅の釘隠しなどが生々しく、かえって貴重なものに思えました。
なお、撮影は禁止されていませんが、公開には許可が必要ですので、ご注意ください。(私は許可を取っていませんので、ビニールハウス越しの写真のみ)

案内してくださった学芸員の方によると、「この他にも収蔵している船があり、一日も早く、ちゃんとした形で展示したいのだが…」とのこと。和船を研究しておられる方のようで、和船の復元建造では、浦安郷土博物館ともやりとりがあるなどの、興味深いお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。

FI2617670_5E.jpg見学を終わって、表に出たら、妙な鳥の鳴き声が…。ふと木の枝を見上げると、なんと大型のインコが留まっているのを発見!
博物館の方の話では、「数十羽、枝にびっしり並ぶときもある」のだそうです。

当館販売の本は、とても面白そうなものが多かったので、お決まりのオトナ買い(笑)。例によって、係の方をてんてこ舞いさせてしまいました…。
見本の前のポケットに、書名を書いた「販売カード」が挟まれているので、現物を持っていかなくても会計ができるという、親切なシステムでした。

展示方法も一見地味で、スペースも限られているものの、内容は実に濃厚で、見ごたえのある博物館でした。興味がある方にとっては、楽しい時間を過ごせる場所になるでしょう。

ご紹介くださったがーちゃんさんに、改めて御礼申し上げます!
撮影地点のMapion地図

(19年3月11日撮影)

(『海苔船のペーパークラフト』につづく)

埼玉県立 川の博物館

FI2617654_1E.jpg2月25日は、埼玉県寄居町にある、「埼玉県立 川の博物館」(サイトはこちら)を見学しました。この日は好天ながら、気温は10度を割り、私にとってはもう極寒(笑)の範囲内。こんな日は寒中航行などといきばらず、水運関連の展示がある、博物館を見て回るに限ります!

博物館の建物は、低い河岸段丘上にあり、前庭から荒川の流れが望める、風景の開けた爽やかなところです。写真は本館で、手前に広がるのは、荒川の源流から河口までを、1000分の1に縮小したスケールモデル「荒川大模型173」。地形模型としては、本邦最大だそうです。
その立地からもわかるように、当館は荒川を中心とした、治水・暮らしから舟運までを展示する、河川の総合博物館なのです。

今回のお目当ては、荷舟(『すごい人気だ通船堀…2』でも登場した、川越艜系の河川用和船)の実物大模型と、鉄砲堰の展示です。

荷舟は、帆柱から前のみの復元でしたが、中に入って、展示物に手を触れることができるのが好ましく、特に世事(セイジ、居住区)の内部は、什器類や食事、神棚まで細かく再現され、船頭の暮らし振りを彷彿することができました。
音声展示のボタンを押すと、老船頭らしい口ぶりと声で、昭和初期と思われる、船内での暮らしや、航行の様子などの話を聞くことができます。

楽しみながら耳をかたむけていたら、ん? どこかで聞いたことがある内容…。最後まで聞いてみて、思い出しました。この話の原典は、以前にも触れた、「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房)のようです。この手の船に乗っていた人々も、もはやこの世にいない今、証言を限られた書物に頼るしかないのは、仕方がありません。でも、語り口や言い回しには、当時の船頭らしさがよく出ていて、とても楽しめました。

鉄砲堰は、山間部の細流で、切り出した原木を流して運搬するために、丸太で堰を組み、溜めた水を一気に放出するという、いわば水運のためのみに作られた仮設の堰で、近代になってから考案されたものだそうです。

まず大スクリーンで、実物の鉄砲堰を造るところから、放水までのプロセスを迫力ある映像で見せてくれ、その後、館内にある鉄砲堰の模型(といっても、2tもの水を放出するのですから、結構な衝撃がありました!)で、実際に放水を行うという、手の込んだ展示方法で、こちらも大いに楽しめました。

吐出口を開くテコを引く役目を、来館者の子供たちが参加して行うのも微笑ましく、進行役のお嬢さんの、手際よい司会ぶりとあいまって、お芝居の舞台を見ているような面白さがありました。

FI2617654_2E.jpg屋外の展示をいくつか。
園内の中心を流れる荒川の支流、宮川の流れをはさんで、対岸にそびえるのは、博物館のシンボル的存在、木製の大水車。

一見、観覧車と見まがうような大きさですが、胸かけ水車(軸と同じ高さから、水をかける形式の水車)として、実際に運転できる仕組みになっています。
残念ながら、工事中で動いていませんでした。

FI2617654_3E.jpgこちらは、鉄製の上かけ水車。昭和30年代まで、ご当地の産物、コンニャクのアラコ挽きに使われていたものを、移設したのだとか。
小屋の中に入ってみると、ゴトリゴトリとのどかな音を立てて動く、たくさんの杵だけでなく、平ベルト連動で、唐箕(トウミ・今風に言えば遠心ファン)を駆動しているなど、カラクリ好きとしてはなかなか面白い展示です。

水車やら風車、畜力による機械など、「動力登場以前の動力」に、一時期興味がわいて、少し調べたりしましたが、この水車にも使われているような、木製歯車や軸ひとつにも、素材の産地や材質の選定、そして工作方法に、膨大な経験と技術の蓄積があり、非常に興味深く思ったものです。

FI2617654_4E.jpgこちらは純和風の、木製精米水車。昭和20年ごろまで使われ、その後は庭園に保存されていたとのこと。

ううん、大型和船は、一艘たりとも残っていないのに、庭園に保存されていて、今日こうして博物館にお輿入れできたとは、うらやましい…。水車はかさ張らない(船に比べて、ですよ)ので、船より残存率が高いのか…。



FI2617654_5E.jpg見学の後は、博物館近くの河原(有料)に寄って、越冬している白鳥さんの群れを眺めつつ、川景色を楽しみました。

好天で、風も弱かったのは幸いでしたが、さすが内陸部の川風、寒がりの身にこたえる冷たさで、早々に退散(笑)。
撮影地点のMapion地図


(19年2月25日撮影)

伊能忠敬記念館

FI2617644_1E.jpg(『佐原と小野川…5』のつづき)
やはり佐原に来たからには、こちらを訪ねなければウソだろうと、伊能忠敬記念館を見学。土蔵造りに似せた建物は、まだ新しいのですがよい雰囲気で、周囲の町並みとなじんでいます。
例によって、館内の撮影はできませんから、詳細は、伊能忠敬記念館HPをご覧ください。

地図の素晴らしさや、高齢となってから新たな道に入り、大業を成し遂げた忠敬の業績については、よく知られたところですので、その道の書籍やサイトにゆずりましょう。
個人的には、教科書や歴史の本で、何度も写真を目にした、量程車や各種羅針(方位磁針)などの精密測量機器を、こうして目の当たりにして、この時代の加工技術は、大したものだったのだなと、つくづくうならせられました。

子供のころ読んだ本で、幕末、現物を見たこともない一市井人が、参考書だけで舶載蒸気機関の模型や、実物を作ってしまう、という話があり、しかもそれが一人や二人でなかったことを後で知り、大いに興味をそそられたのを覚えています。機械の構造を理解するセンスと、作り上げる技術を持った人たちが、この時代、少なからず存在していた事実は、ちょっとした感動でした。
その人たちの存在のあかしを、これら測量機器の精巧さに、かいま見たような気がしたものです。
撮影地点のMapion地図

FI2617644_2E.jpgこちらは、現在地に移転する前の、旧記念館の建物です。樋橋前の、伊能忠敬旧宅敷地内にあります。
現記念館に比べると、簡素な外観ですが、築50年ほどでしょうか、この時代の建物らしい、質素な感じは悪くありません。あまり痛んでいないところを見ると、何か別の用途に使われているのでしょうか。

この後、現記念館の向かって右側にある、和風喫茶店「遅歩庵いのう」に入ったら、なんとそこが現在の伊能本家で、ご夫婦は忠敬のご子孫とのこと。古い家を維持していくには、大変なご苦労をされている旨、お話を興味深く伺いました。
撮影地点のMapion地図

FI2617644_5E.jpg駆け足で見て回った、霞ヶ浦・あんば様・佐原と、大水運時代ゆかりの地を訪ねた1日…終わりはやはり、伊能忠敬の銅像で締めくくりたいと思います。

佐原市街の西外れ、諏訪公園にある、測量器具を携えて彼方を見やる、凛々しい忠敬像です。大正はじめの開設という公園は、門柱や器具類に痛みが目立ち、ちょっと寂しい感じがしました。

銅像の原型は、靖国神社にある、大村益次郎像の作者として有名な、大熊氏広が作ったそうです。竣工は大正8年とのこと。
白い台座に刻まれた漢文は、「仰いで斗象をみ、俯して山川を画す」と読み下すそうです。訳すとすれば…空を見上げては星を調べ、机に向かっては大地をえがいた、といったあたりでしょうか?(自信なし)。忠敬の業績を、短い言葉の中で、よく表わしています。 

一見、川っプネ趣味とは何の関係がないようにも思えますが、彼もまた、水運全盛期の恩恵が生んだ傑物の一人だと思うと、なにやら、浅からぬ縁を感じてしまうのです…。

(19年1月3日撮影)

【2月10日追記】一段目、誤字を訂正しました。また、3・4段目の本の紹介を、次項「水郷・佐原の本」として独立させました。
【2月15日追記】3段目、誤記を訂正しました。

(この項おわり)

戸田市立郷土博物館

FI2617600_1E.jpg11月26日は、近所に用足しがあったのを幸い、戸田市立郷土博物館を見学することにしました。
古くから、「戸田の渡し」を有し、荒川水運の河岸としても栄え、物資の集散地であった戸田には、舟運関連の史料が少なくないと聞いており、一度拝見したいと思っていたのです。

写真は、正面玄関を眺めたところ。博物館は、市立図書館と同居しており、角にはフクロウの像が、誇らしげに立っているのが見えます。
こちらも、館内の撮影は禁止されていますので、展示の詳細は、戸田市立郷土博物館HPをご覧いただきましょう。

同HPの、常設展示紹介にも掲載されている、いわゆる「肥船」の、全木製大型模型は大変立派で、船首にセイジと呼ばれる居住区を備えた、荒川流域の艜(ひらた)の一典型が、よく再現されています。
ただ、船体の規模に比べて、帆が小さすぎるように感じました。末期の川舟の中には、帆装を小型化するものもあったので、模型の原典となった資料に、従っただけなのかもしれませんが…。

この模型が置かれた一角に、河川舟運関連の展示が集中しており、全盛期の戸田河岸を再現した情景や、戸田の渡し場を描いた浮世絵など、この規模の博物館としては、結構なスペースが、割かれているように思えました。以下に掲載した、博物館発行の本にもあるように、送り状などの史料も、旧家に保存されていたものが、数多く収蔵されているようです。
昭和初期まで続いた「河岸の町」としての記憶が、戸田の誇りとなって、この博物館にも受け継がれているのでしょうね…。

FI2617600_2E.jpgこちらは、博物館とは関係がなく、また、戸田の皆さんの名誉を考えると、お見せするのもためらわれたのですが、受けたショックが大きかったこともあり、あえてご紹介します。

1階玄関ホール、図書館の入口にある、「本が泣いています!!」と大書きされたボードの前に並べられたのは、乱暴に破られたり、べったりとシミをつけられたりと、無残な姿の本、本…。
昔から、研究や勉強に熱心なあまり、図書館の本のページを切り取ってしまう例は、時々見受けられましたが、個人で使用する分には、自由にコピーができるのですから、その必要がないのは、言うまでもありません。
しかも、ここに展示されている本が、このような姿になった理由は、そんな向学心とは無縁であることは、これらの状態を見ても、おわかりでしょう。

本にありがたみを感じないご時世! 本が簡単に買えて、読み捨てられてしまう今、果たして、図書館は必要なのかしら…。そこまで考えさせられてしまう展示でした。

FI2617600_3E.jpg…偉そうなことを言って、申しわけありません。気を取りなおして…。
今回も、博物館発行の書籍や展示目録の中から、水運・治水関連のものを何冊か購入したのですが、特に面白かったものを、2点ご紹介します。
(なお、本の販売所は、1階玄関を入って右奥、博物館事務室のカウンターにあります。)

写真左、「戸田河岸と荒川の舟運」(当館発行・平成15年10月、A4判・本文56ページ)は、過去の特別展の展示品・収蔵品をまとめたもの。
寄居や川越まで及んでいた、河川改修前の荒川・新河岸川水運の様子を、古地図や調査書、引札、送り状といった史料や、古写真からデータを起こし、図版を多用して再現しています。
特に、明治期の戸田河岸のデータは、河岸の坪数から、東京への出荷品まで細かく掲載されて、大都市の後背地としての河岸が、どれほど繁華なものであったかが伺え、面白く読めると思います。

写真右は、「姉妹都市交流展『戸田村』幕末・ロシアの風~プチャーチンと戸田号」(当館発行・平成9年10月、B5判、本文40ページ)、やはり特別展の目録です。
嘉永7年(西暦1854年)に、通商を求めて来航したロシアの提督・プチャーチンの乗艦、ディアナ号が、津波により大破、のちに沈没したため、伊豆の戸田(へだ)にて、代船となる小型帆船を建造させたという、造船史上有名な「戸田型スクーナー」誕生にまつわる史料を中心に、収録したものです。
この本は、戸田市と戸田村という、珍しい同名異音の自治体が、平成5年に姉妹都市提携を結び、その交流の一環として展示を行ったいきさつから、展示品の目録だけでなく、戸田村の紹介なども含まれています。

(18年11月26日撮影)