勘十郎堀…1

(『那珂湊反射炉…2』のつづき)
FI2618097_1E.jpg那珂湊を離れ、涸沼を横目に見つつ南下、次に目指す土木・水運スポットは「勘十郎堀」です。

涸沼と、北浦に注ぐ巴川とを結んで、従来陸路をはさんでいた那珂湊~利根川の回米ルートを、効率の良い水運路で直結するために、宝永6年(西暦1709年)に開鑿された内陸運河です。計画者である経綸家・松並勘十郎の名をとって、勘十郎堀と通称され、紅葉運河とも呼ばれます。

さまざまな事情から、結局成功せずに放棄されてしまいましたが、台地を掘り抜いて、遠く江戸にまでつながる水路を開こうとした、構想の大きさには惹かれるものがあり、以前から一度訪ねてみたいと思っていました。

もし、完成された水路として現存していたら、宮城県の貞山堀のように、江戸期の土木遺産として注目を集めただけでなく、内水航路として利用され、魅力的な運河風景を見せてくれていたことでしょう。

FI2618097_2E.jpg県道50号線を南下、城之内近くの二又で「茨城町指定史跡 勘十郎堀跡」の案内板に従い右へ。さらに右折すると、道はゆるやかな下りとなり、写真のような、林に囲まれた谷間を過ぎると、再び上りになる区間に着きます。

この緑濃い谷が、勘十郎堀の跡です。橋が架かっているのではなく、堀を横断して土が盛られており、道はその上を通っているのです。

Googleマップに、勘十郎堀の推定ルートを描いてみました(こちら)ので、ご参照ください。図上の「撮影地点01」が、左の写真を撮った場所です。

詳しい資料が手元になく、それらしい谷筋をなぞってみただけなので、何とも心許ない限りなのですが、この外に両水系をつなぐ谷はないので、大きく外れているところはないと思われます。
間違いがありましたら、ぜひご指摘いただきたいものです。

FI2618097_3E.jpg道の西側には、教育委員会の設けた説明板がありました。
この説明では、未完成説を採っていますが、不完全ながら一応の完成を見、短期間ではあったが通船したとする資料もあります。

ただし、涸沼と巴川の水位差から、一隻の舟を通しで運行することは不可能で、途中十ヶ所の堰を設け、区間ごとに舟から舟へ積み替えを行った(参考:『国土づくりの礎』松浦茂樹)とされています。
それでも、人馬による陸送よりは、はるかに大量輸送ができたとは思われますが、運河としては、ずいぶん非能率なものだったのでしょう。

FI2618097_4E.jpg説明板のすぐ脇、「町指定史跡 勘十郎堀跡」の標柱が立っている場所は、ガードレールが途切れており、堀の中まで降りていけるよう、階段が設けられていました。

法面は鬱蒼と木が茂って、夏に来たら、虫さされに悩まされそう。恐る恐る、降りてみました。


FI2618097_5E.jpg階段の途中から、上を見上げたところ。
階段の角度は急で、ご覧のとおり、土留めが崩れている場所もあるので、ご注意ください。

一見、周りには何もなさそうで、静かなところに思えますが、このすぐ上には養鶏場があり、間断なくトリさんの鳴き声が聞こえるばかりか、風向きによっては臭うので、苦手な方もおられるかもしれません。



(20年5月6日撮影)

(『勘十郎堀…2』につづく)