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宗谷と羊蹄丸

FI2617579_1E.jpg(『10月9日のフネブネ』のつづき)
船の科学館前に到着。ちょっと風があると、三角波に悩まされる東京港の西水道ですが、この日は実に穏やか、快適に飛ばしつつ、港湾風景を楽しむことができました。

船の科学館に初めて来たのは、まだ開館間もないころ、小学校の社会科見学でした。
周りは、建物もろくにない、荒漠たる13号埋立地で、現在の青海は、まだ埋め立てられていませんでしたから、まさに海上に浮かぶ白亜の客船、そのものの風情でした。
撮影地点のMapion地図

FI2617579_2E.jpg前の水面には、もと海上保安庁の南極観測船、宗谷と、もと国鉄青函連絡船、羊蹄丸が繋留され、保存展示されているのは、ご存知のとおりです。

繋留といっても、ただ桟橋にもやってあるのではなく、桟橋と反対舷にもピアを設け、がっちりと挟みこむようにしてあるのですから、少々の波では、びくともしません。

ここに、小型船舶の繋留設備をつくっていただけないかしら、と、前々から思っているのですけれど、いかがでしょうか。国内でも数少ない、立派な海事博物館です。「ボートで行ける、唯一の博物館」という謳い文句があっても、おかしくないどころか、当館の設立趣旨にも合っているように思うのですが…。

FI2617579_3E.jpg宗谷に近づいてみました。

こうして見ても、外舷の至るところに改造の跡がみられ、この船のたどって来た航跡を、垣間見るような気がしたものでした。

旧ソ連からの注文で建造され、当時外交問題まで発展した、引渡し拒否劇ののち、昭和13年、砕氷型商船として竣工、戦時中は旧海軍の特務艦として測量任務に活躍し、戦後は引揚船から、海上保安庁に編入、灯台補給船となりました。
南極観測船に選ばれ、大改造されたのは、その後です。
(宗谷建造時の詳細については、最近発行された、月刊「世界の艦船」11・12月号に、「『宗谷』誕生秘話」上・下という記事が掲載されています。)

私はなぜか、宗谷が好きで、何回かは忘れましたが、この船が展示された初期から、折にふれて遊びに来たものです。(実は今日、11月12日も、南極観測関連の特別展があると聞いて、見てきたばかりです…)

もう、いいかげん飽きてもいいころだと、自分でも思うのですが、狭い船内をひとめぐりし、「偉大なる宗谷よ、永遠なれ」と、船室の壁に書かれた、最後の乗組員の落書きをみて涙し、当時の記録映画を見て、そこでも、毎回同じ場面で泣いて帰ってきます(声をあげて泣くのでなく、涙ポロリ程度です!ワンワン泣いたら、それは危ないヒト…)。

これでは、自分の泣き虫を、再確認しに来ているようなもので、恥ずかしいのですが…内も外も、改造に改造を重ねた宗谷を見ていると、よくぞ暴風圏を越えて、遠い南極まで行ってきたものだと、何度訪ねても、こみあげるものがあるのです…。

FI2617579_4E.jpg反対側の桟橋に憩う、羊蹄丸。
内部の展示では、昭和30年代の青森駅の雰囲気を、リアルに再現した一角が面白く、人形やポスターにも、当時の風俗が生き生きと描写されていて、興味深く拝見したものです。

子供のころ、何度か青函連絡船で渡道する機会がありました。
いずれも冬の、寒さの厳しい時で、一度などは大時化の津軽海峡を渡ったこともあり、鉛色の空と、窓の外で不気味に上下する黒い海面の記憶、それと生まれて初めて、船酔いに苦しんだことを思い出します。

FI2617579_5E.jpgひとコマ余った(笑)ので、帰りに見た第六台場を。原則として立ち入り禁止で、木や草が生えるにまかせており、まるで、太古からそこにあった島のようです。

ご存知の方も多いでしょうが、ペリー来航に刺激されて、築造された洋式砲台です。計画では11基造るはずでしたが、第一、二、三、五、六の5基が完成しました。現在残っているのは、第三・第六の2基で、他の台場は、埋立地に呑み込まれたり、戦後撤去されたりして、現存しません。

(18年10月9日撮影)

【20年1月19日追記】宗谷と羊蹄丸がもやう水面は、ちゃんと「有明南運河」という名前がついているそうです!

(『朝潮運河』につづく)