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羽村堰に遊ぶ…3

(『羽村堰に遊ぶ…2』のつづき)
FI2618078_1E.jpg取水口近くに架かる橋から、下流側を見たところ。
ご覧のように小さな堰があり、角落しでできた低い落差を、澄んだ水がしぶきを上げて流れ下っており、涼味あふれる、まさに水辺の贅と言ったところ。

写真左側は、崖線の上を奥多摩街道が通っているので、取水口周りと同じく、高い玉石垣の壁面になっています。

FI2618078_2E.jpg知人の工務店社長に聞いたところでは…、私の生まれたところは、建物の基礎工事をすると、江戸時代の水道管であった木樋が、さほど珍しくなく掘り出されるような土地だったそうです。

江戸市内の上水源は、他にもいくつかあったので、本当のところはまだわかりませんが、私の足の下をかつて流れていた水は、もしかしたら、ここから導かれていたのかも知れません。

よく知られているように、玉川上水は明治3年(西暦1870年)~5年の、たった2年間ですが、運河として利用されたことがありました。

詳細は、関連書籍やサイトが豊富にあるので、そちらにゆずりますが、上水によって生産力をつけた沿岸の各村からは、江戸時代から通船の陳情が何度もあり、それが退けられると、平行して運河を開鑿する計画まで出たといいますから、一大消費地を前にした農民たちの、安価な大量輸送手段への渇望は、切実なものがあったのでしょう。

短命に終わったとは言え、内陸の、しかも崖線や尾根線に沿ったような、比較的高所を走る通船路は、埼玉の見沼代用水などと並んで、国内では珍しい存在でした。
まあ、見沼のような農業用水ではなく、仮にも上水道ですから、短期間でも通船を許可したということ自体がちょっと異常で、維新前後の混乱を物語っているのかもしれません。

FI2618078_3E.jpg対岸に伸びた堰堤の上を歩いてみたくなり、人道橋・羽村堰下橋を渡って、ほてほてとお散歩。

堰堤の取付けまで、およそ1kmほどでしょうか、約15分かかりました。



FI2618078_4E.jpg橋の中ほどまで来ると、堰の真正面だけあって、ここもまた良い眺め。右側にかぎの手に突き出た横堤や、床固の様子がよくわかります。

現在では、上流にダムがあるため、平常時の流量は少なくなっていますが、かつての多摩川は、江戸に木材を供給する輸送路として、筏による一方通行の水運が、盛んに行われていました。
(多摩川の筏については、『多摩川流域リバーミュージアム多摩川・秋川の水運~筏流し~』に詳しく掲載されています。)

FI2618078_5E.jpg鳥たちのさえずる声を聞きながら、堰堤の上に到着。
堰堤と、河道や上水との位置関係は、Google航空写真をご覧ください。

河川敷と言えど、よほど増水しないかぎり、水の流れないこのあたりは、堰の両側にも大きな木が茂っています。堰堤のコンクリートもひび割れ、草生して、まるで山間の廃道といったおもむきです。
撮影地点のMapion地図


(20年4月29日撮影)

【20年5月27日追記】2段目、上水通船の項を追記しました。

(『羽村堰に遊ぶ…4』につづく)

羽村堰に遊ぶ…2

(『羽村堰に遊ぶ…1』のつづき)
FI2618077_1E.jpg堰東側の段丘の上は、小公園になっており、玉川上水の建設を指揮したとされる、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟の銅像が建っていました。

玉川上水の成立については、今なお不明な点が多く、玉川兄弟への顕彰についても諸説あるのですが、上水の建設に関わった、記録にのぼらない多くの先人への感謝を、玉川兄弟という人格に託している、と考えれば、決して悪いことではないように思えます。

FI2618077_2E.jpg公園には、古来の水制工である、牛枠も展示されていました。ちょっとした治水の博物館のおもむきです。

以前、山梨の笛吹川で見た同様の水制は、「聖牛」と呼ばれていましたが、こちらでは「牛枠(川倉水制)」とありました。



FI2618077_3E.jpg段丘上の公園だけあって、眺めは抜群で、堰の全体を見渡すことができました。

ご覧のとおり、羽村堰の大部分は、コンクリートの斜面を持つ固定堰で、投渡堰は、全長からすれば、ほんのわずかな部分に過ぎません。増水時は、取水口が破壊されないよう、投渡堰を開放するものの、ほとんどの水流は、固定堰の上を越流する構造です。

FI2618077_4E.jpg玉川上水の、起点部に架かる橋の上から、取水口の裏側を見てみました。水は美しいエメラルドグリーンに染まり、水深があることが見て取れます。

この水の色、どこかで見たことがあると思ったら、勝島運河の奥で見た、水の色にそっくりでした。(過去の記事『勝島運河…3』参照)

FI2618077_5E.jpgこちらが先ほど見た、黒いスライドゲートの裏側。石造アーチの余水吐に、周りの玉石垣も素敵で、雰囲気抜群の一角…。

見た目は古風ですが、上を見ると、開閉機構は電動化されており、現役の水利設備であることが実感できました。


(20年4月29日撮影)

(『羽村堰に遊ぶ…3』につづく)

羽村堰に遊ぶ…1

FI2618076_1E.jpg4月29日は、羽村市の羽村取水堰を見に行ってきました。

江戸時代以来の、玉川上水の取り入れ口として有名なこの堰ですが、多摩川の筏輸送や、玉川上水の通船など、水運とは縁浅からぬ部分もあって、一度見ておきたいものだと、機会をうかがっていたのです。
好天の夏日とあって、堰近くの、多摩川の水辺は結構な賑わい。バーベキューや水遊びを楽しむ人が、中洲や河原に繰り出していました。

FI2618076_2E.jpgさわやかな水の音に誘われて、地元では「出し」と呼ばれる、堰下流に突き出す、かぎの手の水制堤の突端へ。

いくつかの落差のある床固の上を、さざ波を立てて流れる川面は涼しげで、いい気持ちです。堰のことを忘れて、しばし流れに見入ってしまいました。

FI2618076_3E.jpg堰の下流は、洗掘を防ぐため、広範囲にわたって床固が施されているせいでしょう、子供たちにとっては、危険な深みのない、格好な水遊び場となっていました。

写真の男の子も、頭までずぶ濡れになって、とても楽しそうです。友達数人と、全開になって走り回っていました。

FI2618076_4E.jpg河川敷に出て、まず目につくのは、下流から見て右側にある、3径間の投渡堰と、黒い水門でしょう。投渡堰の左に見える、堤体の切れ目は、かつて筏を通した、筏通場の跡でしょうか。

投渡堰は、可動堰の一種で、基本的な構造は、江戸期の創設時から変わっていないそうです。黒い水門は、今風に言えば、余水吐と言ったところでしょう。

FI2618076_5E.jpg岸伝いに、黒い水門に近づいてみました。古風な感じのする、4径間のスライドゲートで、手前の2門が細めに開かれ、玉川上水からの水をほとばしらせていました。

この水門は、江戸時代は「小吐口」と呼ばれ、取水口から吸い込まれた土砂を排出させたり、増水時は、余水を放水させたりする役割があるそうです。
撮影地点のMapion地図


(20年4月29日撮影)

(『羽村堰に遊ぶ…2』につづく)

東京~潮来間を、櫓漕ぎのサッパが航行!

FI2618075_1E.jpgエドルネさんのブログ「エドルネ日記」を拝見したら、トップの記事を見てビックリ!
サイクリングで見た川風景!荒川をサッパ舟がゆく!東京~潮来(@@」に、「サッパ舟でいく東京~潮来」という幟を立てた、水郷ではおなじみの農舟サッパが、荒川の川面をゆく写真が載っているではありませんか!

サッパで、しかも江戸川~利根川を通って潮来に行ったとなれば、水郷好きとしても、また利根川水運ファンとしても、聞き捨てならないお話で、胸が躍りました。

(水郷については、過去の記事「魅惑の水郷…1」「ふたたび水郷へ!…1」「水郷案内のパノラマ地図」ほかのシリーズ参照)

櫓漕ぎだけで、関宿回りを成し遂げたのだろうか? それとも、機走や帆走を併用したのかな? どんなコースを走ったんだろう? …知りたいことが、次々に湧いてきて、早くも興奮状態。
早速リンク先である「潮来市Impulseページ」に行ってみると、潮来市商工会青年部の皆さんによるイベントであり、昨23日、無事潮来に帰着したことが判明。
しかし、こちらは短い記事のみで、準備段階からの真摯な雰囲気は伝わってくるものの、残念ながら、私の疑問には答えてくれそうにありません。

さらなる情報を求めて、検索してみると、幸い茨城新聞の記事で、「あやめまつり来月24日開幕 サッパ舟で東京-潮来間」がヒット。以下、一部を抜粋して掲載させていただきます。

5月24日開幕する水郷潮来あやめまつりをPRしようと、潮来市商工会青年部は同18日から7日間かけて、東京墨田区内の隅田川から潮来市の前川あやめ園まで約190㌔をろ漕ぎ舟「サッパ舟」で航行する。東京-潮来間をサッパ舟で航行するのは、1986(昭和61)年以来22年ぶり。

サッパ舟は十八日午前八時半ごろ、墨田区役所付近の隅田川を出発する予定。小名木川、荒川、江戸川を抜けて、二十一日に本県境町内の利根川に入る。その後、同川を下り、支流の横利根川、北利根川を通って、二十四日のあやめまつり開会式に合わせて前川あやめ園に到着する計画。

 今回使用するサッパ舟は、帆を取り付けて高瀬舟のように改造し、人力と風力で航行する。舟には三~五人が乗り、伴走船と陸からの伴走車が同行して安全面などで支援する。メンバーは、キャンピングカーとテントなどを用意し、宿泊は原則的に野営としている。

 これまでに市商工会の前身の「潮来町商工会」は、水郷潮来の観光PRとして一九八六年に東京-潮来間(約百八十二㌔)、二〇〇〇年に潮来-波崎往復(約八十㌔)でサッパ舟を航行した。市商工会としては初めての取り組みとなる。(後略)


また、コースの図版と、22年前に航行した時の写真は、asahi.com「サッパ舟、隅田川から潮来までどんぶらこ」に掲載されています。
波のある荒川・江戸川河口部を避け、中川~新中川を経由して、江戸川に出たのですね。

過去にも2回、この壮挙があったとは!…今まで知らなかったことが、残念でなりません。
しかし、機走なしで、帆走と櫓走のみでの航行は、準備段階の訓練も含めて、ご苦労も多かったことと思います。商工会青年部の皆さん、お疲れさまでした。

サッパは元来農舟で、竿で動かすものですから、帆装したサッパは、大変珍しい存在なのではないでしょうか。白帆を上げて江戸川を上る姿、さぞ魅力的な光景だったことでしょう。見てみたかったなあ…。
今や浅瀬だらけで、動力船の航行は難しくなってしまった、関宿~利根運河間の利根川の様子など、見てみたい映像はたくさんあるのですが、今後の発表を待つことにしましょう。

ともあれ、大水運時代を思わせる関宿回りの航行が、カヌーやカヤックではなく、通常の小型船でなされたことの意義は、決して小さくないと思います。

今回の件に刺激されて、後に続く人たちが名乗り出られたら、航路としての江戸川・利根川にも、一筋の光が見えて来るかもしれませんね。浅い河道の浚渫や、関宿閘門の改修など、楽しい妄想が、どんどんふくらんでしまいそう…。

(写真は十六島与田浦、20年5月6日撮影)

4月27日のフネづくし…2

(『4月27日のフネづくし…1』のつづき)
FI2618074_1E.jpg大黒運河のフネブネ、つづき。

小さな台船の上に載せられた船外機艇。サイズが妙にぴったりで、まるで展示ケースに収められたようでもあります。
22ftくらいでしょうか、だいぶ汚れてはいますが、手入れをしてやれば、まだ十分活躍できそうです。

FI2618074_2E.jpg上の台船の右には、全体的に丸々として、肥えた感じの曳船。

ファンネルが、排気の熱で錆びてしまっていますが、やはり船の象徴ですから、きれいに塗ってやりたいものですね。


FI2618074_3E.jpg本日の、ハートわしづかまれ物件!

過去の記事「19年度川走り納め…6」のときと同様、超小型曳船が、台船の上にドスンと乗っけられているさまには、やはりグッとくるものが…。
ブルワークに囲まれているので、水線下の様子を味わえないのがちょっと残念ですが、小型の割にはディテールが細かく、独特のスタイルなのが楽しめて、まずは満足満足。

FI2618074_4E.jpg荒川・隅田川筋ではおなじみ、河用タンカー。
やはり、黒い塗装はきりりと引き締まって、端正に見えますね。

こういった大型の河用船が、閘室をいっぱいに塞いで閘門通過をしているところ、一回でいいから見てみたいのですが。

FI2618074_5E.jpg最後に本船を一隻。千鳥運河で艫づけする内航タンカー、第二十八青峰山丸。高くそびえるプラントを背景に眺める、満載したら甲板を波が洗いそうな、数百tの小型タンカー、実にいい雰囲気です。

検索してみると、旭タンカー㈱の持ち船で、570tとのこと(旭タンカー株式会社 内航船一覧)。


(20年4月27日撮影)

4月27日の項の参考文献
図説 鶴見川 幕末から昭和初期まで(横浜開港資料館)

(この項おわり)