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佐原と小野川…2

FI2617640_1E.jpg(『佐原と小野川…1』のつづき)
忠敬橋を過ぎると、小野川は西に東にと、S字状のカーブを描き、コンクリート桁橋、共栄橋をくぐります。

現在は、いくつもの橋がかかる小野川も、江戸時代から大正初めまでは、協橋(かなえばし・現在の忠敬橋の場所に架かっていた橋)ただ一つだったとのことです。

この協橋、明治15年(西暦1882年)に竣工したものは、一径間の石造アーチ橋で、当時の佐原の財力を象徴するような、小ぶりながら豪壮な橋でしたが、交通量の増加などの理由から、昭和43年に、現在の忠敬橋に架け替えられたそうです。もし現存していたら、佐原を象徴する建造物になっていたことでしょうね。
撮影地点のMapion地図

FI2617640_2E.jpg共栄橋下流の「ダシ」をふと見ると、松や南天などを、青竹の花生けに挿したお正月飾りらしきものが…。

まるでお座敷のように、屋外の桟橋を飾るその気持ちが、なんとも嬉しく思えました。かつては、商家ごとに「ダシ」を持っていたそうですから、わが家の玄関として、大切にする習慣が、残っているのかもしれません。


FI2617640_3E.jpg石の護岸がしだいに途切れて、コンクリートブロックの護岸が多くなりましたが、街並みが落ち着いているせいか、雰囲気は悪くありません。

前方に見える橋は、縁起の良い名前を持つ、開運橋。
あ、この手前にあった、中橋を撮り忘れてしまった…。
撮影地点のMapion地図


FI2617640_4E.jpg開運橋のすぐ下流にある、JR成田線の鉄橋。佐原駅は、写真左手にあります。下流側には人道橋、小鮒橋が併設されています。

船頭さんの話では、昔、農産物の積み出しが忙しくなると、佐原港(後述)だけではさばききれず、この付近にも貨車を留めて、舟から荷揚げをしたものだとか。

FI2617640_5E.jpg成田線鉄橋の下流で、川はほぼ直角に曲がり、東に向かいます。舟の行く先を、航跡を立てて逃げながら、決して飛び立とうとはしないものぐさ(笑)な水鳥たちが、なんともユーモラス。

写真左手、階段のあるあたりから奥へ、かつては、水路が佐原駅の北まで伸びており、終端は大きな船溜りになっていました。現在、佐原文化会館などの、公共施設のある大きな区画(Mapion地図)が、佐原港跡です。

ずっと昔からあった船溜りと、思われるかも知れませんが、なんと着工されたのは戦後、昭和22年のこと。現JR鹿島線の延長以前とはいえ、地域的な水運網が、まだまだ重視されていた時代だったのですね。
役目を終えた佐原港は、昭和51年に埋立てが完了しました。河港の街としての佐原の歴史は、このとき終止符を打ったと言ってよいでしょう。
撮影地点のMapion地図

(19年1月3日撮影)

【2月15日追記】5段目、誤記を訂正しました。

(『佐原と小野川…3』につづく)
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佐原と小野川…1

FI2617639_1E.jpg(『あんば様…3』のつづき)
本日の最終目的地である、佐原に着いたのは、午後2時をだいぶ過ぎたころでした。

傾きかけた冬の陽に、せかされるようにして小野川畔へ出ました。遊覧船での小野川めぐりだけでも、ぜひ体験しておきたかったからです。

佐原は、安政5年(西暦1858年)に書かれた「利根川図志」にも、「下利根附第一繁盛の地なり」と紹介されるほど、関東屈指の河港として発展した街です。わが国初の実測全国地図を完成させた、伊能忠敬を輩出した街としても有名ですね。

路地を急ぎ抜けて、小野川の下流方を見ると、放水中の樋橋(とよばし)に、人垣ができていました。
この樋橋、その名のとおり、かつては人道橋を兼ねた水路橋で、用水の不要な季節は、樋の側板を外して、川にあふれさせていたことから、「ジャージャー橋」と通称されて、親しまれていたそうです。
その後、昭和の初めにコンクリート製に改築、昔の風情は失われましたが、平成4年に再び木橋に改築、同6年からは、ポンプアップながら放水が行えるようにし、「ジャージャー橋」が名実ともに復活しました。
撮影地点のMapion地図

FI2617639_2E.jpg珍しい樋橋の放水風景を見ながら、橋のすぐ下流にある船着場(佐原の言葉に従うと『ダシ』)で、船頭さんに声をかけると、どうやら暇を持て余していた風情(失礼)で、すぐに出してくれるとのこと。

樋橋のまわりは、伊能忠敬の家の前ということもあり、観光客でにぎわっているのですが、皆さん舟に乗る我々を笑って見ているだけで、自ら乗ろうという人はいないようです。暖冬とはいえ、真冬の肌寒い陽気に、舟遊びはチト酔狂だったようですね…。
それでも、石積み護岸を降りて、暖かいこたつのついた、小ぎれいな舟の胴の間に落ち着くと、すっかり幸せな気分になりました。

FI2617639_3E.jpg樋橋の船着場を、後進微速で出発。郷土の偉人の名を冠した、写真の忠敬橋近くで舟を回し、小野川を下ります。

船外機を操る、男性の船頭さんとともに、菅の笠をかむった女性の船頭さんも同乗して、お国訛りの語り口で、沿岸の名所や歴史を案内してくださるサービス(?)ぶり。女船頭さんの素朴な案内と、石造りの護岸、静かな水面といったディテールが、肩こりをほぐすような感じで、身体に染み入ってきます。やっぱり、水路はいいなぁ…。
撮影地点のMapion地図

FI2617639_4E.jpg忠敬橋をくぐると…さすが「小江戸」を名乗るだけあって、いらかの黒と、壁の白いコントラストが美しい、しっとりとした、かつての河岸らしい街並みが広がりました。かつての日本橋川や、小名木川にも、こんな風景があったことでしょうね。

舟中でいただいた、「小江戸さわら 舟めぐり」と題した三つ折り案内によると、船着場のある樋橋周辺から、これから向かう、中橋下流までの沿岸区域は、「重要伝統的建造物群保存地区」とされ、極力昔の建物を保存したり、電線を埋設式にして、電柱を少なくするなどの、方針が採られているそうです。
自治体の援助はあるのでしょうが、古い建物を使い続けるご苦労は、並大抵のものではありますまい。やはり、郷土への愛着なくしてはできない仕事だと、頭が下がる思いでした。

江戸時代の風情を色濃く残した、商家風の建物群も素敵ですが、ときおりポツリ、ポツリと顔を出す、昭和30年代テイスト(?)の和洋折衷建築にも、いくつか惹かれるものがありました。

FI2617639_5E.jpgこれは、その中でも出色の美容院。タイル張りの外壁に、丸い穴を並べた看板部分の、しなやかな曲線を用いたデザイン…う~ん、思わず見入ってしまいました。腰部分と、窓枠から上のタイルの色を変えているのも、細やかさが感じられます。

…そういえば、子供のころ行かされた床屋さんて、タイル張りの印象が強かったなあ。水周りがあるご商売だからでしょうか?

(19年1月3日撮影)

【2月15日追記】5段目、誤記を訂正しました。

(『佐原と小野川…2』につづく)

あんば様…3

FI2617638_1E.jpg(『あんば様…2』のつづき)
参拝してから、愛艇のためにお札をいたたいでおこうと、社殿右にある社務所へ。

「『航海安全』のような、フネのためのお札はありますか?」と、若い係の方に訊いたところ、「いえ、そういったお札はちょっと…」と、反応ははかばかしくありません。仕方なく(なんて言ったら、バチが当りそうですが)、クルマにつけるような、「交通安全」のお札をいただくことにしました。

ところが、隣に並べられていた絵馬をフト見ると、なんと! 天狗様が如意棒のような竿を水中に挿しこんで、水難に遭った人を救い上げている絵が、描かれているではありませんか! しかも、隣には帆を五合まで降ろした和船と、船上で手を合わせる人物までおり、明らかに船と船乗りの守護を主題にしています。

絵馬ですから、裏側に願いごとを書いて、境内に結び付けて来るのが本当なのですが…今や、船との縁が薄くなってしまったあんば様の、数少ない船とのつながりのような気がして、いただいて帰ることにしました。

FI2617638_2E.jpgこちらは、お札を入れてもらった袋と、社務所でいただいた、大杉神社の縁起を記した刷りもの。全体的に赤っぽいのは、古来厄除け・疱瘡除けに効く色が、赤とされているからだそうです。

キント雲? に乗った二人の天狗様が、こちらを睨みつけている絵柄は、ユーモラスな中にも迫力があり、厄も恐れをなして退散しそうですね。


FI2617638_3E.jpgあんば様とは関係がありませんが、阿見飛行場でいただいたものも、ついでですので、ここでご覧に入れます。

受付けを済ませると、まずいただいたのが、阿見飛行場のロゴ入りハンドタオルとボールペン、そして飛行機の写真が入ったティッシュ。タオルとボールペンは、何かもったいない気がして、まだ使っていません(笑)。
写真入りマグカップは、記念に買ったものです。すっかり気に入ってしまい、これで毎日お茶を飲んでいます。

(『佐原と小野川…1』につづく)

あんば様…2

FI2617637_1E.jpg(『あんば様…1』のつづき)
あんば様の境内に入りました。初詣の参拝者で結構な混雑ぶり、しかもこじんまりとした境内には、露店が社殿近くまでひしめき、雑然とした感じですが、実ににぎやか。ちょっと柴又帝釈天にも似た雰囲気ですね。

大杉神社は、江戸時代以来、主に疱瘡の治癒神として関東一円に知られ、また「夢結び大明神」、大願成就、商売繁盛の神様としても名高いのですが、その信仰のおこりはなかなか古く、奈良時代にさかのぼるようです。

ここは昔、内海の水が足元まで迫る、安婆島と呼ばれた半島だったそうです。半島の突端に巨杉が立っており、航海の目印としても役立ったことから、素朴な信仰心が芽生えたのでしょう。天狗様が現れて、遭難せんとする船を救った、という口伝から、天狗信仰も併せてあるなど、その霊験はバラエティー(笑)豊かです。

なお、阿波大杉神社の縁起については、「大杉神社」(古代であそぼ)に詳しく述べられています。

FI2617637_2E.jpg現在の社殿は、享和2年(西暦1802年)に、火災で焼失したあと再建された、文化10年(西暦1813年)竣工のもの、とのことです。最近も改修されたようで、軒飾りの金や、欄干の朱も目に沁みるような鮮やかさですね。

前回も触れましたが、高瀬舟が活躍していた大水運時代、あんば様は、船乗りの神様としても著名で、関東の川舟のみならず、東回り航路をゆく海船乗りにも信仰され、講中は遠く、東北地方まで存在していたとのことです。

正月は、神社前の旅館が、船頭の代参人であふれ、参拝前夜の酒席では女たちが、名物「あんば囃子」を賑やかに踊り、社殿には船乗りたちの奉納した、扁額が隙間なく飾られている…。
いまやその面影は、境内にすら探すことは難しいのですが、船頭たちが去った後も、なお神社が盛んであるのは、あんば様の霊験が、多岐に渡っている証しでしょうか。

FI2617637_3E.jpg社殿裏手にそびえるご神木、三郎杉です。樹高28m、幹周り6.5mという巨木で、まっすぐに天をめざす姿は清々しく、自然に手を合わせたくなる雰囲気があります。この三郎杉も、高瀬舟の白帆を見守ってきた、生き証人であるに違いありません。

元祖のご神木である太郎杉は、寛政10年に焼失したとのこと。あれ、次郎杉は? どこかに説明板があったと思うのですが、撮り忘れてしまったようです…。

社殿には、もちろん主祭神がおわすのでしょうが、このような巨木が人々の心を動かし、今に至ったことを思うと、この杉こそが、あんば様そのものだと、言って良いような気がします。

FI2617637_4E.jpg社殿に隣接して、お寺さんがありました。龍華山安穏寺、神仏混交の時代は、恐らく僧が、神社のために働くこともあったのでしょう。
賑やかなあんば様の境内に比べて、対照的にひっそりとしており、本堂も古びていて、むしろこちらの方が、歴史を感じさせます。

面白いのは、文治年間(西暦1185~1190)に、源義経の家来であった、常陸坊海存が滞在、奇跡を示したことから、容貌魁偉な海存を天狗になぞらえ、天狗信仰が盛り上がった、という話が伝わっていることです。

FI2617637_5E.jpg天狗の石像近くにあった、観光案内板です。太古は、霞ヶ浦の一部であった平地も、今は田んぼや住宅地となり、湖面は遠くに去ったものの、灌漑水路が走る水郷らしい風景は健在です。

話は変わりますが、今回の参考にしようと、高瀬舟乗りのあんば様信仰について、詳しく書かれた「利根川高瀬船」(渡辺貢二著・崙書房)を読みかえしていたら、新河岸川の旧福岡河岸(ふじみ野市)にも、大杉神社が勧進されたことが触れられており、機会があったら、こちらも訪ねてみたくなりました。


(19年1月3日撮影)

【2月15日追記】5段目、誤記を訂正しました。

(『あんば様…3』につづく)

あんば様…1

FI2617636_1E.jpg(『空から水路をゆく!…4』のつづき)
阿波大杉神社に到着しました。鳥居の両脇には、天狗の顔をかたどった、ユーモラスな石像が置かれて、人目を引きます。

大杉神社は、「あんば様」とも通称され、かつて、利根川水系を行き来する船乗りたちの、絶大な信仰を集めたそうです。私も遊びブネながら、川船乗りのはしくれ。かねてから、一度ご挨拶しておこうと思っており、今回ようやく実現したわけです。

ここで、あんば様創建にまつわるお話でも、と思ったのですが……到着した直後、さっそく、あんば様のご利益か、凄いモノを発見してしまったのです! というわけで、神社の詳細は後ほど…。
(以下、興奮してお見苦しい説明になりますが、ご勘弁ください…。)
撮影地点のMapion地図

FI2617636_2E.jpg神社裏にある、初詣客で混雑する駐車場に、運良くクルマをとめることができました。クルマから降りて、境内へ向かおうとすると、連れが「これ、船じゃないの?」と繁みの方を指差しました。

ゴミの山と思って、気にも留めなかったのですが、言われてみると確かに船…しかも和船です! 残骸に等しい状態とはいえ、見れば見るほど、洋式化の度合いが低い、純粋に近い和船であることがわかり、一人で盛り上がってしまいました(笑)。
 
写真は、船首から船尾方向を見たところ。全長7~8m、縦横比の大きい船が多い小型和船としては、かなり小さい部類です。

FI2617636_3E.jpg左に埋もれて見える、湾曲した材は、水押(ミヨシ、船首材)が脱落したもの。棚板(側板)と、水押をつなぐ釘が腐り、棚板の湾曲部が弾けるようにして、分解してしまったようですね。青白く見える部分は、釘の頭や、接合部を保護するために貼られた、銅板が緑青をふいたものです。

この水押は、本水押(ホンミヨシ、一本水押とも言う)という形式です。水押と、以下に述べたように棚板の構成から、この舟を荷足舟(にたりぶね、茶舟とも呼ばれる)の一種と判断したのですが、いかがでしょうか。ご存知の方、ご指摘ください。
腐朽が激しいこともあり、私の乏しい知識では、はっきりと判断しかねるのが、痛いところです。

FI2617636_4E.jpg側面、中央部を見たところ。
この写真で見ると、棚板が一棚(一段)造りに見えますが、棚通り釘を隠す銅板の列が、棚板下部に見えることから、この下にもう一段、下棚(マツラとも呼ばれる)があったと思われます。腐朽して接合部が折れ、上部の船体が、座り込んでしまったようです。(このあたり、自信がありませんが…)

棚板上部の出っ張りは、小縁(コベリ)と言って、接岸時などに、棚板を保護する縁材です。FRP艇で言うなら、ガンネルですね。
高瀬舟などの大型船になると、小縁の幅もぐっと広くなり、この上を歩いて、竿を刺せるくらいの幅員がありました。舷側通路といったところでしょうか。

FI2617636_5E.jpg棚板の内側をみたところ。上が船首側です。
アバラと呼ばれる、肋骨様の補強材が見えます。ボルト・ナットで無造作に留められているところを見ると、就役後、相当期間が経ってからの補修時に、取り付けられたものと思われます。(上の写真にも、ボルトの頭が出ているのが見えます)

写真左に見える、内側の縁材は、高瀬舟では「ウチナゲシ」と呼ばれましたが、荷足舟ではなんと言ったのでしょうか。

私にとって、とても興味深いものには違いないのですけれど、中には落ち葉や枯れ枝がたまって、草も生えている光景は、やはり痛ましく、心の中でこの舟の冥福を祈り、手を合わせました。

この舟は、なぜここに来て、なぜ打ち捨てられたのでしょうか。現役時代を送った、霞ヶ浦や利根川の水を離れて、どのくらいの月日を過ごしたのでしょうか。
川舟ゆかりの神様のお膝元を、終焉の地とすることが、せめてもの手向けだと考えた人が、ここに置いたのかもしれないな…と、とりあえず良い方に解釈しました。

まあ、そんなことをあれこれ想いながら、あんば様の境内に向かったわけです。

(19年1月3日撮影)

【2月15日追記】5段目、誤記を訂正しました。

(『あんば様…2』につづく)