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水門のユーザー

FI2618281_1E.jpgまあ、アレです(どれ?)、東京の水路には、ご存知のようにたくさんの水門があり、こうして水路を走り回っていると、当然ながら、水門をいくつもくぐることになるわけで…。

生来、この手のものが嫌いでなかったせいもあるのでしょうが、お陰さまを持ちまして、今や(いや、だいぶ前から)すっかり、水門愛好家です。


FI2618281_2E.jpg水門を仰ぎつつ、くぐるたびに思うのですが、こうして水門を艇でくぐるというのも、水門の役割の一つ、開放時の通船機能を利用していることになるわけですが。

とすると、私も言わば、水門のユーザーの一人になるのかなあ、こんなデカイ扉を、自由に通り抜けることができるなんて、なかなか豪勢じゃないの…と、妙なところで、一人悦に入ったりしています。
単なるヘンな奴ですか。

FI2618281_3E.jpg本当なら、水門が守っている、流域の街の人々こそが、水門の恩恵を直接受けている、利用者ということになるのでしょうが、恐らく住民の皆さんは、ユーザーとしての自覚は、ほとんどないに違いありません。

いや、それを自覚するようになったら、川や海にただならぬ事態が訪れているときですから、意識されないくらいの状態が、水門にとっても、幸せなのかもしれませんね。

FI2618281_4E.jpg歩道橋の下を走るクルマのドライバーが、「ああ、歩道橋があるおかげで、スムースに走れてありがたいなあ」と、いちいち恩恵を感じることは、まずない(いたら、それはそれで妙な感じが…)ようなものですか。まあ、インフラとは、そういったものなのかもしれません。

で、何を言いたいかと申しますと、水門のユーザーになるのは楽しい、ということです、はい。

(撮影日は上から…19年9月16日、5月14日、9月16日、7月28日。水門名は上から…上平井水門、日本橋水門、中川水門、洲崎南水門)
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モーターボートに、櫓

(『桜探しに出かけてみたら…9』のつづき)
…というわけで、一応、高速滑走船型のはしくれである我が艇に、櫓をつけるという、蓮っ葉なことをしてみました。

何度か触れたように、和船好きとしても、櫓という推進具に惹かれるものがあり、和船の所有がかなわないのなら、せめて櫓だけでも、思うさまいじってみたい…という気持ちが、昔からあったのです。

このご時勢ですから、現在も櫓をあつらえてくれるところなど、なかなか見つかりません。
一時は自作も考えたのですが、一年ほど前、たまたま、櫓の受注製作をしている船具店、「松令三商店」を知り、喜び勇んで、メールで問い合わせてみました。

モーターボートに櫓をつけるという、私の無茶な要求にもかかわらず、「夢のある話だ」と興味を持っていただき、一緒に取り付け方を考えてくださるなど、とても丁寧な応対だったので、長年の夢をかなえようと、お願いしてみることにしたのです。

FI2618010_2E.jpgこれが、我が愛しの櫓、全体像です。

櫓刃(ロバ。ロシタとも)と呼ばれる、水に入る部分は長さが3m、手前の太い櫓腕(ロウデ)は、バランスウェイトと握りを兼ねた部分で、長さ1.5m、合計した全長は4.5mあります。梱包を解いた直後は、「こんなに大きいもの、うまく扱えるかなあ…」、というのが第一印象でした。

ムクの樫材から削り出したものですから、当然ではありますが、ずっしりと重く、慣れるまで取り扱いに難渋したものの、さすが旧海軍御用の職人さん、肌触りもなめらかで、いっぺんでほれ込んでしまう素晴らしさでした。これで、熟練者なら、数tの積載量がある舟を、難なく取り回せるのですから、櫓の生み出す推進力というのは大したものです。

FI2618010_3E.jpg購入の決め手は、何と言ってもこの、ロバとロウデが、工具なしで分解できる構造にありました。
製造元の商品名では「簡単脱着式櫓」と呼ばれており、ご覧のナット一個で、分解・組み立てが容易にできるのです。ナットは落としてしまわないよう、スイベルを介して鎖で結んであるのも親切です。

寸法を見てみると、ロバは甲板上に斜めに立てかければよく、ロウデはカディ(船室)の中に入るので、艇内へ完全収納できることがわかりました。

FI2618010_4E.jpg支点となる鉄製の櫓杭(ログイ、ロベソとも)は、なじみのボートサービスに依頼して、トランサム(船尾)の左舷寄りに取り付けてもらいました。

ログイの先端は玉状になっており、これが鋳鉄製のイレコとがっちり噛み合い、私のような初心者が漕いでも、抜けて櫓を流したり、漕ぎ手が落水したりしないように工夫されています。

この構造は、旧軍で、櫓の経験のない兵隊さんでも、短期間で漕ぎ方を習得できるよう、考えられたものだとか。

ちなみに、陸海の自衛隊でも、一部で櫓漕の訓練は行われています。海上はともかく、なぜ陸上が? と思われるかもしれませんが、施設科部隊(工兵)では、渡河作戦の必要があるためで、基本の一つとして、旧軍時代から櫓漕を教えているそうです。
実用ではすっかり減ってしまった櫓も、自衛隊が止めない限り、需要が絶えることはなさそうですね。

なお、通常の櫓は、以前もご紹介したこの道の大先達、新考案の櫓を研究・自作されているGL-Laboの、「本物の『櫓‥実物と妙技』をこの目で見る」で、掲載されている写真にあるように、ログイは位置決めのためのものに過ぎず、イレコの曲面全体で、荷重を負担するような構造になっており、私の櫓とは、かなり仕組みが異なるのです。

和船友の会の、会員の方のお話では、私の櫓のような型のログイ/イレコは、関東ではあまり見られず、瀬戸内など関西に多いようだ、とのことでした。なるほど…。

FI2618010_5E.jpgまあ、そんないきさつで、櫓つきモーターボート就航とあいなり、さっそく水路行の道々に、練習に励むこととなりました。写真は、旧中川での練習風景です。

櫓の取り付けを考え始めたころから、モーターボートの船型が、櫓漕に適さないことは、容易に想像できました。
長さが短く、幅の広い船体は方向安定性に欠けるでしょうし、船体前半に、フロントグラスとカディが立ち上がっているときては、風圧側面積をかせいでいるようなものだからです。

実際に漕いでみると、方向安定はともかく、風の影響はかなりのもので、微風でも船首がたちまち風落し、しかも一度回されると、艇が重いということもあり、私の乏しい腕力(泣)では、保針すら難しいのです。
小型和船が、風の影響を受けないよう、舷側を低く均一にしており、また水の抵抗を少なくし、直進性を良くするため、縦横比の大きい、細長い船体である理由が、身をもって理解できました。

こうなると、練習できる場所も限られてきます。この約1年、方々で漕いでみて、我が艇の櫓走に適した水路は、以下のようなところだというのがわかりました。

①直線区間が少なく、カーブがあって見通し距離の短いところ。
②幅があまり広くなく、両岸は高い土手や建物が続いているところ。
③流れがなく、動力船の通航が少ないところ。

真っすぐで幅の広い水路は、それだけ風の通り道になりやすいので、うまくありません。風除けとなる建物がないのも考えものです。流速が速いところ、引き波があるのももってのほか…イヤ、わがまま放題の子供みたいなヘタレぶりですが、ミスマッチ満載の櫓走艇としては、致し方ありますまい。

この条件にかなう水路は、旧中川、大横川(旧大島川の区間)、汐浜運河の東端部などで、特に旧中川が良かったのですが、日曜・祝日は閘門がお休みで、入れないのが痛いところです。

そんな面倒はあるものの、櫓漕を始めてからは、なじみの水路も、櫓走のしやすさといった視点で見るようになり、機走している時とは、また違った世界が広がったように思えます。
ロウデの滑らかな手触りに陶然となり、ハイオ(櫓の跳ね上りを押さえる綱)のきしみに、押送舟や小早など、江戸の櫓走舟に思いを馳せる、静かで、幸せなひとときです。

(19年5月13日~9月24日撮影)

(この項おわり)

海難救助の思い出

昔の話で恐縮ですが、今回はちょっと子供っぽく、自慢話(?)をさせてください。川走りを始めるより少し前、先代艇に乗っていたころの話です。

FI2617875_1E.jpg三浦市を母港としていたころ、何度か、他艇を救助する機会がありました。もっとも、救助、というと大げさなレベルかもしれません。
バッテリーが上がって、エンジンのかからなくなった大型艇を、桟橋まで曳航したり、ブームが外れてしまって、帆走できなくなったディンギーを、やはり浜まで曳いてあげたり…といった程度で、近くを通りかかった艇としては、当然のことをしたまででした。

恥ずかしながら、こちらが助けられたこともあります。何分陸の上と違って、電話一本で、間なしに救急車やパトカーが飛んでくるわけではありません。ほんの通りすがりであっても、お互いの状態を気遣うことが、クルマとは比べものにならないくらい、重い意味を持っているのが、フネの世界ともいえるでしょう。
今でこそ、携帯電話が普及して、またBANに代表されるようなレスキューサービスもでき、沿海域における小型船舶の救助体制は、充実したものになってはいるものの、漂流は即、人命に関わる場合が多いので、遭難艇を横目に通り過ぎる、というわけにはいかないのです。

増して、そんな便利なものは無きに等しかった、十ン年前においておや。
中でも特に思い出深かったのが、これからお話する「海難救助」でした。

夏も、終わりに近いころだったと思います。今日で乗り納めて帰ろうと、相模湾に出て、三浦半島西岸に沿って北上、船影の少ない、爽やかな海を楽しんでいました。
確か台風が過ぎた後で、風はやや強く、波がありましたが、うねりの波長が長いため、快調に飛ばすことができた覚えがあります。

しばらく直進していると、2枚(数え方がこれでいいのか、わかりませんが)のウィンドサーフィンが、波間に浮き沈みしているのが見えてきました。

ウィンドサーフィンも、上手な人になると、ボートも顔負けの高速で、かなりの距離を走ることがあります。実際、江ノ島沖で、10ktは出している私の艇を、余裕で追い越していった女性のウィンドサーファーに、出くわしたこともあるくらいです。

とは言うものの、ここは岸から1kmは離れており、ウィンドサーフィンで遊ぶ水域としては、ちょっと沖に過ぎます。速度を落として、様子を見ることにしました。

観察していると、1枚はセールを倒したままで、乗っている人は、ボードの上に座っているようです。少し離れたところにいるもう1枚は、帆走しているのですが、風が強いせいでしょう、すぐにセールが倒されて、乗っている人も投げ出されてしまい、またセールを立てては倒され…を、繰り返しています。

周りをよくよく見回しましたが、随伴艇らしい船影は見えません。ううん、この場所で、この状態はマズいなあ…。
だいぶ近づいてきたせいか、帆走している方の人の、声が聞こえました。
「大丈夫! すぐ助けるから!」ボードに座っている人に向かって、叫んでいます。
やはり、遭難しかかっているようです!

さらに近づくと、帆走している人は男性で、座っている人は女性であることが判明。これには感動させられました。
定期航路もほとんどなく、沖に流されたらまず船影を見ることはない、この相模湾で、彼は命がけで、彼女を救おうとしているのです! 

セールを倒されてしまうような強風、しかも風は陸から吹いている(正確な風向は覚えていませんが、岸から沖に向かって吹いていました)という悪条件下で、あるいは無謀ととられる方もいるかもしれませんが、ダメだとわかっていても、助けに行かずにはおられない彼の心意気に、掛け値なしの「男の中の男だ!」と、思ったものでした。

彼らに近づき、「引っ張ってあげようか?」と声をかけると、「お願いします!」と男性が応えたので、艇をボードに寄せ、曳航の準備に取りかかりました。よく見ると、女性の乗っていたボードは、マスト(?)のジョイント部(?)が壊れて、セールが立てられない状態だったのです。これでは、戻ろうにも帆走することができません。

私的には、ピンチの二人を前に、カッコよく(笑)駆けつけたつもりでしたが…。
当時は私もまだ初心者、正しい曳航の知識もありません。セールのついたままでボードを曳航しようとして、ロープが切れてしまうという醜態を演じ、最初の勢いはどこへやら。
しばらく悪戦苦闘したあと、2人にも協力してもらい、セールを分解して収納、ボードは横抱き曳航することにして、なんとか出発。

幸い、二人とも怪我もなく元気で、彼らの仲間が待つ海水浴場を教えてもらい、30分ほどかかって、仲間のもとに無事、送り届けることができました。

この話には、後日談があります。
三浦から帰って、一週間ほど後だったと思います。私宛に、知らない人から宅配便が届きました。ハテ、何だろうと包みを開けてみると、贈り物とともに手紙が入っていて、「先日海で助けていただいたものです」云々、との文が。ウィンドサーフィンの二人が、贈ってくれたものでした。

ビックリすると同時に、本当に嬉しくなりました。
特に名乗らず分かれたので、手がかりと言えば、舷側に書かれた艇名くらい。マリーナをつきとめ、私の住所を聞き出すまで、相当な苦労があったに違いありません。その心遣いが、たまらなく嬉しかったのです。

このお二人とは、その後も年賀状のやり取りが続き、しばらくして、結婚された旨の手紙をいただきました。
奥さんのためには危険も辞さない、「男の中の男」が旦那さんなのですから、きっとお幸せに暮らされているに、違いありますまい!

(浦安沖、19年6月23日撮影)

映画「青べか物語」を見て

去る7月19日、仕事を早引けさせてもらい、京橋の国立近代美術館・フィルムセンター(サイトはこちら)に、映画「青べか物語」(昭和37年・東京映画)を見に行ってきました。

FI2617778_1E.jpg私は、映画そのものには、あまり関心がないのですが、「ポンポン大将」が見たくて、騒いだ(笑)ときのお話(過去の記事『「ポンポン大将」が見たい!』『舟、山に登る?』参照)でもおわかりのように、以前から、興味のある場面が含まれる映画やドラマがあると知ると、動く映像(笑)見たさに、ビデオを探したり、名画座を訪ねたりしたものでした。

映画の原作となった、山本周五郎の小説「青べか物語」については、あまりにも有名なので、改めて説明の必要はないでしょう。
この小説、私の中では、国内では数少ない「水路小説」だ、と位置づけているのです。

山本が暮らした、大正末から昭和初めにかけての浦安(作中では『浦粕』)の水路情景や、東京と江戸川(作中では『根戸川』)下流部を結ぶ、定期船の船員たちの生活ぶりなどが、叙情豊かに生き生きと描写され、フィクションとして脚色されているとはいえ、この時代の河川の風景を髣髴させる史料としても、今や大変貴重なものだと思っています。

関心を持ったきっかけは、「水路が描かれているから」という不純なものながら、繰り返し読んでいくうち、「浦粕」の住人たちの強烈なキャラクターや、人間くささが充満する「青べか」の世界にぐいぐい引き込まれ、以来熱烈な「青べか」ファンになってしまいました。

今でも旧江戸川畔に、作中で船宿「千本」として登場する、「吉野家」という釣船宿があるのですが、この横を艇で通るたび、あのこまっちゃくれた長太郎少年が、ひょっこり顔を出すような予感に襲われて、人知れず興奮してしまうほど。(吉野家のサイトはこちら。山本周五郎とのエピソード、貴重な画像あり)
また、少し前に、NHKが昔の記録映像を放映していて、「青べか」ゆかりの吉野家を取り上げており、老人となった晩年の長太郎少年…いや、吉野長太郎氏が出演されているのを見て、「うわ、長太郎、こんなに歳とって…」と涙してしまう…というくらいのファンなのです!


FI2617778_2E.jpg長くなりましたが、そんな思い入れのある「青べか」の世界と、映画の撮影された、昭和30年代末の江戸川河口の水路風景を、ぜひ目に焼き付けておきたくて、フィルムセンターにおもむきました。

入口をのぞくと、開場一時間前にもかかわらず、すでに待合室は満員で、100人を越える列ができていました。これは「青べか」人気と言うよりは、このとき特集されていた、監督の川島雄三が好きな方なのでしょうが、その熱気に驚いたものです。
幸い、劇場は310人定員で、余裕をもって席に着くことができました。

映画の始まりは、都内から旧江戸川河口に至る、空撮シーンで始まるのですが、砂州が今のように埋め立てられ、河道が整理される直前の、「沖の百万坪」や、「大三角」「小三角」といった、作中ではおなじみの、緑豊かな河口部の風景が広がり、その美しさに息を飲みました。

「先生」が、青べかに乗って、「氵入(いり)」と呼ばれる縦横に走る水路や、浦安を貫流する境川をゆくシーンは、水路趣味的(笑)にはまさに圧巻!
中高の素朴な板橋が、無数に架かる葦原の中の狭い水路を進み、木製のスライドゲート…樋の口、と呼んだ方がしっくりくる、小さな水門をくぐり、ベカ舟や打瀬舟が、隙間なくもやう堀割りをかすめ…すばらしい水路情景の連続に、もう目眩がするほど(笑)。

中でも貴重に思えたのは、境川を守る水門の、昔の姿が写っていたことです。
境川東水門(過去の記事『境川東水門』参照)が、コンクリート枠を持つ、2径間木製マイタゲートであったこと、境川西水門(過去の記事『旧江戸川下流部…1』参照)も同じく、1径間マイタゲートであったことが、映像で確認できました。

また、ベカ舟の帆走シーンが何度かあるのも、水門に劣らず貴重なものに思えましたし、初恋の人がくれた人形と廃船に暮らす老人…幸山船長の住まいである木造曳船は、原作では通船(旅客船)となっている違いはあるものの、やはり今ではまずお目にかかれない船型で、珍しい映像でした。

「水路映画」としての、ディテールのご紹介はきりがないので、このあたりで止めておきましょう。
ほんの40数年前まで…などと言うとトシがばれそうですが、原作の書かれた昭和初期とさほど変わらない、美しい水路情景が健在であったことを目の当たりにすると、仕方のないこととは言え、惜しいことをしたものだ、という思いで、胸が一杯になったものです。

さて、人物を見てゆくと、東野英治郎扮する、ケレン味たっぷりの芳爺さんや、左卜全の幸山船長は、特に私の抱いていたイメージにぴったりで、昔から知っていた人に会ったような、懐かしささえ覚えました。
唯一、ちょっと違うなと思ったのは、南弘子演ずる、乞食少女の繁あま(原作では『繁あね』)が、年齢が高すぎるところでしたが、ミスキャストと感じる俳優は少なく、原作のイメージも壊されずに、素直に楽しむことができたと思います。

残念だったのは、長太郎少年と「先生」がからむエピソードが、ほとんど割愛されていたこと。
また、原作では、30年後に「先生」が浦粕を訪れ、成人して船宿の店主となった、長太郎に再会しながらも、「覚えていない」と言われる最終章があり、私の好きな話のひとつでもあるのですが、これも映画では省略されていました。
まあ、映画は撮影と同時期の時代設定でしたので、この話は無理があるかもしれませんが…。

風景にも、登場人物にも、すっかり満足して席を立つと、受付に写真の「川島雄三 乱調の美学」(磯田 勉 編、カワシマクラブ 協力、ワイズ出版)という本が売っていたので、パンフレット代わりに購入。6~7月は川島雄三監督作品の特集月間で、「青べか」も、その中の一本として上映されたのです。
この本によると、川島監督は、45歳という若さで亡くなったので、生涯に撮った作品は51本、「青べか」は47本目で、末期の作品と言ってよいでしょう。

関心のある映画…いや、正確に言いましょう、「関心のあるシーンが含まれる映画」(笑)が、戦前から、昭和30年代までのものが多かったので、結果的に、この時代の映画のテンポや雰囲気に、ある時期肩まで浸かったようになり、馴染んでしまったことがありました。
そのせいでしょうか、たまに誘われたりして、最近の映画を見に行っても、違和感ばかりあって、あんまり楽しめません(映画ファンの方、ごめんなさい)。

川島監督は、日々追いまくられて、じっくり撮ることができない状況が、いたくご不満だったようですが、素人の私から見ると、やはり黄金時代に作られたものには、他の時代のそれにない良さが、あるように思えるのです。

【10月5日追記】8段目、本のタイトルが間違っていたので、訂正しました。

外輪式手動船外機(!)の思い出

今を去ること、20ン年前の思い出話です。何分昔のことなので、細部がよく思い出せないところもあり、恐縮ですが、お付き合いください。

父に連れられて、今はなき晴海の国際展示場で開催されていた、ボートショーを見に行ったときのことです。
新進らしい、アルミボートメーカーのブースの片隅に、奇妙な機械が展示されているのを、父が発見して「こいつは面白いな! 買ってみるか?」と、笑いながら私に言いました。

グレーに塗られた、鉄板製のその機械を見ると…なんと、テコを手で押し引きすると、4枚羽根の水車が回転するという、手動船外機とでも言うべきものでした。
手で外輪を動かすという、発想の奇抜さと、まるで工作機械のような外観に、私もすっかり乗り気になり、二つ返事で承諾。父が、こういうものに興味を示すこと自体、珍しかったせいか、このときのことは、今でもはっきり思い出すことができます。

FI2617755_1E.jpg話だけでは説明が難しいので、画力のなさも省みず、エンピツをなめなめ、ポンチ絵を描いてみました。
買ったときの情景は、鮮明に覚えているのですが、こうして絵を描いてみると、現物のディテールの記憶が、情けないことにほとんどありません(泣)。
特に、クランクやフレームの構造があいまいで、この絵の通りでは、理屈に合わないところもあるかと思いますが、どうかご勘弁ください…。

普通の小型船外機と同様、トランサムにCクランプで取り付けます。クランプにはヒンジがついており、本体を左右に振って、方向を換えることができました。水かきはご覧のとおり、鉄板を組んだ単純なもので、ロッドを避けるため、左右二組に分かれていました。

洗練されたところが微塵も感じられない、武骨そのもののデザインに、かえって惚れ込んでしまったあたり、このころから好みが変わっていないのだなあ、と、苦笑するばかりです。

頑丈な木箱に、完成状態で梱包されてきたコレを、長さ3mほどの、FRP製テンダーボートに取り付け、当時の母港があった湾内を、走り回ってみました。

なにしろ、結構な面積の水かきが、絶え間なく水を叩き、すくい上げるのですから、音はかなりのものです。おまけに、盛大に水しぶきが上がるため、その目立つことったら…(笑)。ガババン、ガババンと音を立て、豪快?に進む小さなテンダーは、沿岸の人たちにとって、もう珍奇な見世物(笑)だったと思います。

嬉しくなって、何度か走り込んでみると、子供なりに、いくつかのことがわかりました。
駆動のからくりと、重量がある分、オールで漕ぐより、はるかに力がいること。
オールなら、惰力で岸につけたりといった芸(?)ができるのにくらべ、外輪を止めると、水かきが抵抗となってしまい、惰力がほとんど効かないこと。

また、水かきが一枚板なのも、ロスが大きいように思えました。水かきが水面から出るとき、大量の水をすくい上げてしまうため、水の重さの分、余計な力がいるからです。水かきの面積をもっと小さく、先端部分だけにしたら、水はけが良くなり、もっと軽い力で回せるのにな…と、考えたものです。

この考えは、のちに、実物の外輪船の構造を、詳しく説明した記事に出会って、間違いではないことがわかりました。(外輪の実物は『上川丸に会いにゆく…2』を参照)
高速の外輪船になると、水かきが可動式になっており、ロッドによって、水に入ってから出てくるまで、垂直な姿勢を保つような構造に、作られているものもあったそうです。
外輪も、単純なようでいて、スクリュープロペラと同じく、効率を追求した歴史があったのですね。

手動船外機のその後ですが…。
さすがに、船舶免許を取ってエンジン付きの艇に乗るようになってから、すっかり使わなくなり、海辺にあった親戚の家に預けておいたら、その家が火事にあって、いっしょに焼失してしまいました(泣)。

きちんと保管しておけば、珍物として、皆さんにご覧に入れることができたのですが…。まあ、長じて、川を走る外輪船が好きになり、外輪そのもののハンドルを名乗るようになるとは、考えもしなかったころから、外輪に親しんでいたというお粗末です。

この、恐らく空前絶後と思われる、「ポータブル外輪」を作っていたメーカーが、どうしても思い出せません。
数種類のアルミボートと、この手動船外機(確か、チェーンで駆動する、プロペラ式のものもありました)を掲載した、メーカーのパンフレットを持っていたのですが、なくしたのか、探しても見つからないのです。

ボートのラインナップも変わっていて、四角い横帆と櫓(!)がついたカタマラン(双胴船)、キャンプに使う、テントを乗せたようなハウスボート、平面のみで構成された、重ねて収納できるアルミボートなど…。
その珍妙さ(失礼)が、かえって興味を引き、いかにも造船の経験がない業者が、新規参入したといった感じで、強く印象に残っているのです…。

どなたか、ご存知の方はおられませんか?